深く暗い海底に沈み

精神的に落ち込んだときの記録

景色をともに 7

 

 その週の金曜日、女性は言った。

「彼はね、虹が好きなんだって」

「虹…ですか?」

「そう、虹。全く透明で見えなかったものが突然現れるのを見るのが好きなんだって言ってたわ」

 女性は、人差し指と親指でアーチを描いた。

「新一さん、虹は好き?」

 女性は言った。

「考えたこともありませんでした」

「そっか」

 女性は小さく頬を持ちあげてぼくを見た。

「いや、でも、次見られたときは意識して見たいと思います」

「いいのよ、そんな意識しなくても」

 女性は笑って手を振った。

「ぼくはこのベンチで、いつも一人で目をつむっていたんです。目をつむると何も見えない代わりに、聞こえてくる音を頼りに、美しい世界を描き出せるんです。そして不思議なことに、彼の本をめくる音はどうしてか、奥の奥のほう、今までは平面でしかなかった世界に奥行きを持たせて、遠くのほうに彼を描かせるんです。耳を澄まさないと聞こえない、時計の針が鳴らすように繊細な音でしかないのに」

 ぼくはぼくの声をとても正確に耳にした。

「そうなんだ。彼は本をめくる音、紙がこすれる音が好きだって言ってたわ。気持ちをなだめてくれるんだって。そうだ…」

 女性は大きくうなずいてから言った。

「新一さんの、音を頼りに景色を描き出す素敵な方法を、彼に教えてあげようかな」

「そんな大したことじゃないですよ」

「いいえ、大したことよ」

 女性は言った。

「彼、もうすぐ見えなくなると思うの」

「え?」

 気づけば、ぼくは息をとめて、せみの輪唱を追いかけていた。


景色をともに 6


 次の日もその次の日も、女性がビール瓶を持ってやって来た。せみの輪唱を聴きながら眠ることはなかった。短いとわかった生命の歌声は、それだけで荘厳な舞台を作った。その舞台の空気を揺らすことなく、女性はしずかに腰をおろした。視線を交わすだけで声はなかった。この場が好きな彼、似た感覚を持っているだろう女性、そして、ぼく。ただここにベンチがあるから。そういう解釈はぼくの気持ちを整理するのに十分だった。ビール瓶は、先にぼくがいたからそのお詫びのようなお礼のようなものだろうと考えた。


景色をともに 5


 週明け、ぼくはキッチンペーパーを敷いたタッパーにいちごを並べ、大学に持って行った。

 お昼の時間、嬉々としていちご色に染まった姪の姿をみつめながらお弁当を食べた。

「彼の友人さんですか?」

 プチトマトを拭いているときに、女性の声が耳に届いた。そっちのほうを向くと、見知らぬ線の細い女性がいた。女性が指す彼とは彼だろうとすぐにわかった。女性は手に二本のビール瓶を持っていた。

「かをりといいます。お隣よろしいですか?」

「あ、はい」

 女性はワンピースの裾を手でおさえながらベンチに腰をおろした。彼と女性、二人の過ごした時間の長さを感じた。その仕草一つでぼくは確信に近いものを抱いた。

「彼は今日、来れないんです。だから、彼にビールを持っていくよう頼まれて、私が来ました」

 女性は手に持っていたビール瓶をぼくとの間に置いた。

「そう言われても、困りますよね?」

 女性は肩をすくめてぼくのほうに顔を向けた。

「私はいいんですけど、ね、友人さんは困惑するでしょう?」

「あ、いえ」

「お名前はなんて言うのですか?」

「中原新一、です」

「そうですか、新一さん、ね。これから彼が来れないときは私が来るかもしれないから、よろしくお願いしますね」

 女性は小さく頭をさげてから立ち上がった。

「あの、彼は今日も本を読んでいますか?」

 見上げた女性は、一度うなずいた。

「そうね、読んでるんじゃないかな」

 そう言って、またうなずいた。

「あの、よかったらこれ、一緒に食べてください」

「きれいないちごね、混じり気のないきれいな赤」

「実家で採れたものなんで申し訳ないですけど」

「何も申し訳ないことないじゃない。喜ぶわ、ありがとう」

 女性の後ろ姿が見えなくなってから、ぼくはナプキンの上に放置されていたプチトマトをそっと口に入れた。張りのあるそれを勢いよく破裂させると、すこし酸っぱいのが口にひろがった。


景色をともに 4

 

 いちご摘むから送ろうか、という母の電話を受けてぼくは、来週末帰るよ、と伝えた。

 バスに三時間ほどゆられて実家に帰ると、玄関で四歳の姪が、赤くて光沢のある長靴に足をいれようとしていた。

「あ!しんにいだ!」

 と言って立ち上がり、

「しんにいもいちごとりにいくんだよ!」

 と、ぼくを押し返したので、ぼくは入ってきた玄関をうしろ向きに出る形になった。

「ぼくも長靴にはきかえたいな」

 と言ったけれど、

「わたしがとるからだいじょうぶ!」

 と、小さなピースを頬にくっつけた。ぼくはだからその愛らしい手にひかれるままに歩きだした。するとうしろから、

「しーん、おかえり!しおりのこと頼んでいい?」

 とお姉ちゃんの声がした。ぼくは振り向いて手をあげた。

「きのう、いっぱいとったからね、もうちょっとしかないんだよ?だからぜんぶたべていいって」

「ママが言ってたの?」

「そうだよ!」

 いちごのなるところまでのあぜ道を手をつないで歩いた。昨年は姪をおんぶしながら歩いたのにな、と、しめってあたたかい姪の手の感触から思い出した。

 畑に着くと、姪はいちごのもとへと一直線に駆けていった。こぶし大くらいのじゃがいものようないちごを両手で持って、得意げな笑顔を作った。よい表情だと思った。いちごを収穫できた喜びと、それを食べられる喜びと、そのときを誰かと共有できた喜びと、さまざまな喜びがあるのだろうけれど、どんな喜びに成長とともに慣れてしまったのだろうかと考えていると、

「しんにい!たべよ!」

 二つの大きないちごを手にした姪の大きな声が聞こえた。

「よし、洗って食べようか」

 姪の声に呼応するように大きな声を出そうした。思ったような声を出すことはいつでもむずかしいことだった。

 二人でほおばったいちごは、果汁にあふれ甘く、姪の白いシャツの襟を鮮やかに染めた。それから姪は両の手でシャツにでたらめに手形をつけていった。えへへ、と姪が得意げな顔を向けるから、つられて笑い声がもれた。

 家に帰ると、お姉ちゃんは姪の服を見て、

「あー、しおりー、またやったのー?」

 と、半ば呆れたような声を出して、ぼくを見た。

「ママの分もたくさん取ってきたもんね?」

 ぼくは言った。

「うん、そうだよ!とってもおいしいんだから」

 姪はそう言って、お姉ちゃんの胸元にとびこんだ。お姉ちゃんは、

「ありがとうね」

 と言ってから、

「まずはちゃんと手洗っておいで」

 と言った。

 汗で湿った姪の前髪を、そっと左右に寄せてあげるお姉ちゃんの姿は、どろどろになって家に着くと、姉がまっさきに玄関に来て、こうして迎え入れてくれたことを懐かしく思い出させた。

「いちごどうやって持って帰る?」

「小さなダンボールに入れて持って帰るよ」

「荷物にならない?」

「バス乗るだけだから大丈夫」

 そんな会話を母として、ぼくは実家をあとにした。山道をバスに揺られながら、彼にこのいちごを持って行こうと考えた。ビールに対する小さなお返しとして。また、話のきっかけとして。

 深緑に萌える山々の中にある茜色の一群は、いつだってぼくの目を惹きつけた。あの一群から全てが茜色に染まってほしい、または、あの一群を深緑に染めてほしい。そういった、つまらない視線を投げかけていた小さな頃のぼくを、ぼくのその感覚を、長い年月をかけて茜色に染めあげていった。


景色をともに 3


 木の陰が長く濃くなってきたある日、目をさますと隣に彼が座っていた。わきにビール瓶を置いて本を読んでいた。ぼくは何かわるいことをしたような気がして急いで立ち上がって授業に行こうとした。すると彼は、

「どこの出身ですか」

 と聞いた。ぼくはおどろき振り返って、

「あ、田舎、です」

 とっさにそう言った。

「おれもですよ、隣りの県の〇〇っていう、田舎」

「あ、ぼく、△△です。〇〇の隣りの」

「そうなんだ、じゃあもう友だちだ」

 彼は瓶をかかげて、

「明日も来るわ、よろしく」

 そう言って本に視線を落とした。

 うたたねのあとの突然の出来事に胸をどきどきさせながら、どうして友人なのだろう、酔っぱらっていたのか、明日は土曜日だから休みじゃないか、やっぱり酔っぱらっていたのだろう、と、教授の話もそこそこに、さきの出来事を頭にとどめないように適当な理由をくっつけて処理した。

 けれども週明け、ふだん会話をすることが少ないからだろう、ぼくの頭は彼との会話をしっかりおぼえていて、ぼくは遠くから一度ベンチに彼がいないことを確かめてからいつものようにお弁当を食べ、まぶたにのびやかな光景を見た。しばらくして隣りに気配を感じて目を開くと、足を組んで本を開く彼がいた。ビール瓶は二本あった。

「あ、起きた?あげるよ、それ」

 彼は本に目を向けたまま言った。

「うまいんだよ、それ。叔父が作ってるの。だから、飲み放題ってわけ」

 ぼくはことりのさえずるのを聞いて、

「あ、はい」

 と声に出した。

「じゃあ、また明日」

 彼は本とビール瓶だけを手に歩いていった。

 次の日もまたその次の日も、目を開くと隣りに彼はいて、あ、起きた、とだけ言って、ビール瓶を置きみやげのようにして去っていった。ビール瓶が冷蔵庫を占拠しても、ぼくが彼のことについて知っていることは、彼の叔父がビールを作っているということだけだったけれど、ことりや蜂がいるもっと奥のほうからひそやかに聞こえてくる、彼の本をめくる音をゆめうつつにも好ましいと感じていることは、自問するもまでもないことだった。


景色をともに 2


 入学したばかりの頃、ぼくは大学の中庭のベンチに腰かけ、ことりがさえずるのに耳を傾けながらお弁当を食べることが多かった。

 流れる雲のはやい日、ことりはいつもより賑やかにみえた。鳴らない口笛は風に運ばれた。彼らがさえずるような軽快さを、ぼくは持ってはいなかった。誰かを前にするとぼくの口はうまく動かなかった。黙しているときにどういう口のかたちをしていればよいのか分からなくなり、固く閉じてみたり、とがらせてみたり、発音するためではなく口が動くことはよくあった。それにひとりでいるときに頭をかけ巡る言葉なんかも、誰かの前では吹き飛ばされて見つけることができなかった。ぼくがもし彼らのようにさえずることができたとしても、木の陰にかくれてみんながさえずるのをこっそりと聴いているだけだろうと、プチトマトの赤いのを一度ナプキンで拭いてから口にいれた。誰にも見えない破裂を、ぼくは好ましいと思った。

 入学して数週間が経ち、中庭のベンチのひとつはぼくの特等席となった。ことりのさえずり、葉のこすれ、蜂のはばたき、いろんな音を耳にするなかで、その音のするほうを目で追ってしまうと、その音をほんとうに聞いているのか、ぼくが期待して頭の中でその音を流しているのか、よく分からなくなって目を閉じることがふえた。まぶたの裏では、音の鳴るのに合わせてことりや木々や蜂、ときには飛行機なんかも姿をあらわし、そういうものはぼくを寝かしつけた。授業に遅刻することもあった。


景色をともに 1

 ぼくが見ている景色を彼にも見てほしいと願い、それを写真に収めることはおそろしく簡単なことではあるけれど、どうしてそれを見てほしかったのかと問われればそこにこたえはなく、ぼくはただそのときの陽の照りぐあいや吹きつける風の向きなどを思い出しながら、美しい景色だから、とだけ口にするだろう。けれどもぼくはその風景を言葉で再現できるだけの表現力を身につけたいと切に願い、そのためにたとえば一度使用した言葉は枯れてもうつかえないというような制約をかせば、自身を数かぎりない言葉を持つ大木であると信じて縷々と言葉を紡いでゆけるかと考えると、表現力の問題とはべつに、美しいというたった一語の持つ言葉のふくらみの尊さを感じられ、美しい景色だから、とやはり口にするかもしれない。それはその一語で表現したいという願望かもしれない。そもそも彼はどうしてかとは問わないのだけれど、ぼくは彼に写真を見てほしいと願うたびにそうした問いを想定しては、自身が大木でないことをおもい知る。そして同時に大木になりたいと願う。