裸で産み落とされた
応えられるだけの僕を について
ものすごく短いこの話は、
ただひたすらに生きたいと願う気持ちを込めて書きました。
決して一人ではないのだと、
言い聞かせることによって、
関係性の中での責任やら使命やらを、
無理矢理にでも作り出そうとしていたのだと思います。
目を通していただけますと幸いです。
応えられるだけの僕を
永久歯が生え揃う少し前、僕は林檎の皮を剥くことができるようになった。手慣れた人がやるような鮮やかさを見せることはできなかったけれど、おじいさんの入院する部屋で、僕は人生で初めて林檎の皮を剥いた。だからおじいさんが僕の剥いた林檎を食べてくれた初めての人だった。
「おばあさんとよう手付きが似とうなあ」
おじいさんはそう言いながら、ベッドを少しだけ起こして僕の手元を見ていた。僕は震える手を深呼吸で落ち着かせながら、皮が切れてしまわないように時には大胆に身をえぐり、時間をたっぷりかけて、丸い林檎を取り上げた。赤い線をところどころに残したそれは不細工に見えた。
「うまいなあ」
おじいさんはけれどそう言った。
声変わりをした少し後、僕は母の病室で林檎を剥いた。痩せ細ってしまった腕で僕の肩を抱き寄せながら、僕の剥いた林檎を少しだけかじった。
「美味しい」
と言った。そしてもう一度、
「美味しい」
と言った。
哀しく強い響きに僕は涙が溢れた。
「美味しい」
と僕も言った。
もうそれは綺麗な色をしてはいなかった。
初めて髪の毛を染めた少し後、僕は父の乗っていたバイクに跨りながら林檎を剥いた。削れたグリップに剥いた林檎を突き刺した。
「頼むよ」
声が漏れた。
近くを流れる川に林檎を投げ入れた。飛沫も上げずに吸い込まれた。目にかかる前髪を果物ナイフで切ろうとしたけれど、切れなかった。
妻の妊娠が分かった翌日、僕は妻と墓石の前で林檎を剥いた。半分を僕が、そして残り半分を妻が剥いた。丸く綺麗な林檎を二人でかじった。
「美味しいね」
と妻は言った。
「美味しい」
と僕も言った。
皮も食べた。種もへたも、全て食べた。
息子が一歳になったとき、僕は林檎を艶が出るまで磨いた。息子は無邪気に空をかいた。
「大きくなったら一緒にかじろうな」
そう言って息子に手渡した。
息子は林檎にほっぺをくっつけた。
僕は息子を高い高いすると、息子は林檎を高い高いした。
「お、い、し、い」
僕が言うと、
「おー、い!」
息子は言った。
「おー、い?」
妻が言うと、
「おー、い!」
息子は笑った。
妻も僕も、馬鹿みたいに泣き笑いした。
「おー、い!」
僕は力強く、息子と妻を抱き寄せた。
「やっぱり剥いていい?」
僕が言うと、
「食べようよ」
妻は言った。
「たー、よ?」
妻の腕の中の息子は言った。
「たー、よ」
僕の涙で拍手をしながら息子は言った。
景色をともに について
この物語は真夏の陽射しが差し込む、
爽やかな朝の図書館で書きました。
ネットさえあれば人と繋がれる今、
繋がれなくなることは、
どのような意味を持つのか、
そんなことを考えながら書きました。
連絡が途絶えることは、
関係の終焉を意味するのか、
はたまた、
その人の死を意味するのか。
私は、
うつに近い状況に陥ったときに、
ほぼ全ての連絡を断ちました。
もし、
私の周りでそういう人がいたとして、
その人が何をしているのか、
生きているのか、
死んでしまっているのか、
分かりようがありません。
自分の行いに対するもどかしさを、
爽やかさを保つ景色に投影し、
どうにか昇華したかったのだろうと思います。
目を通していただけますと幸いです。
景色をともに 10
ぼくは図書館にいて、ガラス向こうの夏の終わりの陽ざしを浴びる木々が風に吹かれてゆらめいているのを見ながら、木と木をつなぐ、たった一本のくもの糸を見つけた。それは木々が揺れるたびに光を反射し現れてはまた消え、目を凝らしても光の助けがないとぼくの目には見えなかった。ぼくはしばらくそのさきにある研究棟の屋根の陽炎のほうを長く眺めた。不意に重なるそれらは、いつだって彼を思い出させた。
景色をともに 9
週末、ぼくは電車にゆられて街へ出た。額からあふれる汗をタオル地のハンカチで拭いながら、かをりさんが待ち合わせ場所に指定したカフェを目指した。
「新一さん、今日何してる?」
今朝、かをりさんから電話を受けた。
学外でかをりさんに会うのは初めてのことだったけれど、
「どうかしたんですか?」
そういう言葉は言葉にならずに、頭の中だけで響いた。
カフェに着くと、かをりさんの手をあげるのが目に入った。白くて長い指をしていることを初めて知った。
「休みの日にごめんね」
かをりさんは言った。
「いえ」
「今年の夏は長いわね。まだまだ暑い日が続くって言ってたわ」
「そうみたいですね」
「でも夏は嫌いじゃないわ。汗をかくと生きてる感じがする。汗ってやわらかいでしょう。だからいいのよ」
「液体っていうことですか?」
「そうね、だからこそ汗は流れてかたちを変えられる。どうしてかね、よく見る夢があるの」
かをりさんはカップを両の手で持って口元に運んだ。
「見えているもの全てが動かない夢。風も何もない。それを見ている私は、体がなくて、普段するように手や腕を見ようと思っても、そこにはないの。夢としてはなんの面白みのない平凡なものだとは思うのだけど、どうしてかこわいのよ」
「今朝も見たんですか?」
「うん」
「そう、ですか」
「その夢を見たあとはね、必ず体を丸めた状態で目がさめるの」
ぼくは薄べったい氷の浮かんだお水を口に含んだ。
「新一さん、うちに来ない?」
かをりさんは、そっと目頭をおさえてほほえんだ。優しい笑顔だった。
彼はもう、見えなくなったのだろう。数えられるくらいしか彼に会ったことがないぼくは、もう一度だけ、彼の本をめくる音を聞きたいと思っていた。彼はまぶたの裏の遠くの遠くに、ぼやけたままで、ずっとい続ける。彼はその向こうから同じ景色をを見てくれるだろうか。
ぼくはお水を流しこみ、残った氷を、舌の上でそっと溶かした。
景色をともに 8
眠りは遠く、ぼくは間接照明を眺めながら、見えなくなる、という、かをりさんの言葉を思い出した。かをりさんが今まで付き合ってきた男性はみんな、どこか遠くへ旅に出て、誰一人戻ってきたことはないのだと言った。いつもと変わらない表情のまま、変わらない声の調子で、
「いってきます」
を最後の言葉にして。
人がいなくなることは、見えなくなる、と表現したほうが、そのことをすんなりと受け入れられるのだと説明してくれた。
「いなくなるって寂しい響きじゃない?見えなくなるって言うと、気配は残ってる気がするからさ」
かをりさんはそう言った。
彼は今、かをりさんの家で大きな絵を描いている最中なのだと教えてくれた。その絵は、切り株に腰かけるだれかの後ろ姿を描いているものらしく、かをりさんはそれをぼくのことだろうと思っているみたいだった。
「肩の丸みが新一さんにそっくり。初めて新一さんを見たとき、一目でそう思ったわ」
ぼくのような小柄な男性は、あちこちで見かけるけれど、ぼくはその絵を見てみたいと思った。彼の目に映るぼくの後ろ姿は、みすぼらしいほどにちっぽけだったらどうしよう、そんな不安も少しわいたけれど、描かれること、それを思うだけで、ぼくの心は、木陰でやすらかにまどろむ彼を見た。
「その絵を描き終わったらね、彼は見えなくなると思うわ」
かをりさんはどこか乾いた調子でそう言った。かをりさんの予感があたるとすれば、その絵を夏の終わりと同時に描き終えるだろう。夏の熱風が彼をどこかへ連れてゆくとは思えなかった。うだるようなしけった夏風を彼が纏うことは、寓話の中のできごとのようにしか思えなかった。
「初めて彼と夜を過ごしたときにね、それはいま振り返ると、彼が自分についてしゃべった唯一のときなんだけどね」
彼は寝息をたてるよりも小さな声で、一枚の絵画の話をしたという。絵は壮大で、描かれている人間は実寸よりも大きく、がらんと広い原っぱでくつろぐ七人の男女を描いたものらしい。
「後ろ姿だけで表情は見えないんだけど、すごくたのしそうに描かれてるんだ。七人の生み出す親密性の光が、陽の光と調和を取りながら、うらうらと照っているんだよね」
彼はそういう全景に対する印象を述べてから、その絵を天井に見るように、瞳で薄暗いそれを撫でた。かをりさんはその彼の横顔は、哀しそうにも優しそうにも見えた、と言った。
「おれはこういう絵を見たときに、いつも右端にもう一人描きたくなるんだよね。木陰から一人、グループをのぞき見る、もう一人を」
「どうして?」
「それがおれなんだろうね」
釈然としない気持ちを抱えたまま、かをりさんは彼の寝息に呼吸を合わせながら、ゆっくりと眠りにおちたという。
飄々とした彼の佇まいからは想像しにくい話だと思った。彼はグループに対する羨望も、嫉妬も抱かなさそうな性格だと、一方的に、感じていた。むしろその右端は、ぼくのほうがふさわしくて、ぼくが十何年間過ごしてきた場所のように、視界に入らない、光とは縁遠いものにみえた。あるいは、また違った意味を持った場所なのかもしれないと、彼に見えているその場所に、漏れ入るほのかな光を感じた。
ぼくはその微光を求めるように目を閉じた。