深く暗い海底に沈み

精神的に落ち込んだときの記録

すみか について


この物語は、

私がアイルランドにいたときの景色を思い返しながら書きました。


朝の陽光はとても清々しく、

川に反射する光は、

それ自体よりも神聖なものに見えました。


景色の美しさを書きたいがために、

登場人物たちがとても朧げな存在になり、

抽象的でまとまりがないように思います。


景色の美しさを感じる心のゆとりを、

当時は切望していたのだと思います。


いつも、

書くことは私の救済であるように感じます。


目を通していただけますと幸いです。



すみか 7


「今日もその池には行くのですか?」

「はい、毎日行ってますから」

 彼女の頬は赤らんで桃のようになっていた。

「一緒に行きませんか?」

 彼女は言った。

 私が頷くと、彼女も少しだけ頬を持ち上げて頷いた。空になった私のグラスを持って彼女は席を立った。

 交差点を一つ超えて石畳の路地に入ると、左右の窓ガラスの向こうでは、肩を寄せ合いながら、または顔を突き合わせながら、一様に、愉快で仕方がないという風情でお酒を酌み交わす姿が見えた。密閉された笑い声を横目に、歩を進めるたびに小さくなってゆく彼女の背中だけを追いかけた。

 似たような路地を幾度か曲がり、ダクトの見下ろす、光の届かない隙間を抜けると、破れたネットに雑草、落ち葉を抱え込んだテニスコートがあった。彼女は一度振り返り私を見てからテニスコートを横切って、鬱蒼と生い茂った木々を慣れた手つきで抑えながら、ずんずん進んで行った。その姿を不思議に感じながら私は、彼女が言う池というものを、彼女の雫の耳飾りのようなものだと思っていたことに気がついた。

 彼女の通った跡を消すようにして木々は揺れ戻った。視界から彼女が消えても、私が進んだ先には彼女がいてくれるだろうと思った。私はだから破れたネットを触りながら空を見上げて目を閉じた。

 吹けば消えてしまいそうな雲が月にかかり、私は彼女がしたように木々を抑えながら同じ道を辿ろうかと思ったけれど、私の二本の腕では抑えきれずに枝葉が身体を突いた。目にさえ突きささらなければと、身体を反転し後ろ向きに進んだ。彼女の道を荒らしてしまっていないか、木々が揺れ戻るのを眼前で確認しながら、引きずるようにして一歩ずつ足を出した。

 木々の感触が背中から消えたところでようやく着いたと、私はまた身体を反転した。そこには夜の暗さとは同化できない暗さを湛えた池があった。それは何千何万回と見たようにまるかった。辺りの伸びた木々は池に顔を浸すように曲がり、池には月明かりが届いていなかった。足下に目を遣ると、縁を囲う朽ち果てて角を失くした木材には苔が生え、水面には落ち葉が島を作っていた。確かめるまでもなく見えない水中は濁っているだろうと思った。彼女に似つかわしくないように見える光景を前にして、私はだから何一つ馴染む言葉を持っていないんだと思った。

「………」

 音を届けるだけの声を出すと、渇きを感じた。足下にあったこぶし大の石ころを拾い上げ池に投げ入れようとすると、池の真ん中から何かが浮かび上がった。白いそれは白くて、その白さは彼女のものだろうと思った。彼女だと思うと、唇や鼻、つま先、あるいは睫毛の動きまで、およそ浮かび上がっているものは全て見えるような気がした。彼女は見えない月を見つめているかのように一点だけを見つめて動かず、まばたきさえもしなかった。それでもわずかに上下動を繰り返す腹部を見ていると彼女の呼吸音が聞こえるような気がして、それに合わせるように私は同じ空気で呼吸した。

「この池はとても綺麗なのよ」

 彼女が言ったのか、私がそう言ってほしかっただけなのか、その言葉はでも恵みの雨のように夜の静けさに沁みわたり、月の声はこのようなものなのかもしれないと思った。

「ありがとう」

 つぶやいて私は裸になり、池の中へと飛び込んだ。私が泳いで向かう間、彼女は顔をこちらに向けて頬を持ち上げていた。

「ありがとう」

 と彼女は言った。

 私は慣れない立ち泳ぎをしながら彼女の頬に触れ、触れてからそこに張り付いた髪の毛を一束一束、一本一本、彼女の耳にかけていった。露わになった耳にはもう雫の耳飾りは揺れていなかった。私はまた、

「ありがとう」

 と彼女を見つめ、私たちはそっと唇を重ねた。


すみか 6


 二階の窓から見える橋の上で、綿菓子を乗せたような髪をしたおじさんを、学校帰りなのかリュックを背負ったたくさんの子どもたちが取り囲んでいた。おじさんはその髪に手を入れては小さくてカラフルなものを取り出し、子供たちに手渡した。膝立ちをしているせいだろう、ズボンの膝頭は破けているように見えた。

 みんなに手渡せたようで、子供たちはおじさんに手を振り親のもとへ駆けて行った。夕焼けを背におじさんの笑顔は慈愛に満ちているように見えた。おじさんは立ち上がり、髪から取り出したものを一つ、口に入れた。そこへ一人の女性が近づき、手を差し出した。おじさんは髪に両手を入れて、女性の手に乗せた。女性は何かを言って、おじさんは笑った。

 私は螺旋階段を降りて橋の上へと行ったけれど、おじさんが居た場所には女性しかいなかった。女性は私を見るなり何かを投げた。手を開くとそれは紙に包まれた飴玉だった。顔を上げて女性を見ると、またね、と口を動かして、橋下へと姿を消した。下を覗き見てもやはり、光の膜が張られているだけだった。


すみか 5


 私は飲み終えたグラスを返し、二杯目を頼んだ。彼女はそれを注ぎながら、

「一緒に飲みませんか?」

 と言った。

 少しの酔いを感じる頭で描いた世界に彼女が登場したことが、私を二杯目へと導いたのは確かだった。私はそれでも、

「お仕事は…」

 と口にした。

「もうあがりなんです」

 と言って少しだけ頬を持ち上げた。私が思い描いたやり方と同じだった。

「もしよろしければ」

 彼女はまた少しだけ頬を持ち上げて、雫の耳飾りを揺らした。

 私は誰もいなくなったカウンター席に腰掛け、グラスの滴る水滴を撫でた。彼女はサイダーを片手に私の隣に座り、

「じゃあ」

 と言ってグラスを掲げた。

「乾杯」

 私たちは静かな音を鳴らした。

 隣同士のために耳飾りが見えないのを少し残念に感じながら、カウンターに置かれた、白くて細い、血管の透けた彼女の腕を見つめた。私のそれと似ている気がして私も腕を伸ばした。彼女のほうがより細くて頼りなく映った。髪や肌からすると同い年くらいなのだろうと思ったけれど、音のない所作に大人びた雰囲気を感じた。

「昨夜、珍しいことがありました」

 静かな声だった。

「池のほとりの友人を、見つけられませんでした」

 彼女は前だけを見つめて話した。私はだから自然と彼女の横顔を見つめた。口紅の引かれていない薄い唇は、無垢な艶を帯びているように見えた。

「彼はこの一ヶ月ほど、毎日欠かさずそこにいました。一つしかない常夜灯の下で、何かを編んでいました。その何かを編み終えたのか、彼は昨夜、そこにはいませんでした」

 淡々とした調子に哀しみの色はなく、異国の童話を朗読するように、一音一音を掬うように話した。

 彼女の瞳に映る彼を覗いてみたいと思ったけれど、彼女はグラスに口をつけ、それからすっかり口を閉ざしてしまった。彼女はそれでも同じように前を見つめ続けた。彼女の前にはどこかの景色が広がっているのだろうと感じ、彼女の細い身体に溜め込まれたものを、私に向けられていない瞳から知りたいと思った。彼女の動かない唇はけれど私を安心させた。


すみか 4


 街には大きな川が流れていた。街を分断するように街の中心を流れていた。川には鉄橋が架けられており、通勤、通学、散歩、ジョギング、あらゆる人々がその橋を渡った。橋の中程から川を眺めれば、その先には昇る太陽を見ることができた。人々はけれど太陽を見ることはなかった。張り詰めた糸に引っ張られるように、各々の目的地を目指しているように見えた。

 私は欄干に肘をつき、見えるはずもない太陽の輪郭を切り取るように、目を閉じて太陽を見つめた。橙色は視界の中心に集まるようにして楕円の光体を形作った。それはほどなくして円になり、円になれば途端に弾け、また橙色が広がった。

 目を開くと、隣には欄干に腰掛ける女性がいた。足は川の方へ投げ出されていたけれど、長い髪が風に揺られていても細い幹は真っ直ぐで、滑り落ちる心配をするのは馬鹿馬鹿しいことだと思った。女性は足を組み直して私を見た。それから頬を少し持ち上げて、またね、と口を動かした。私もそう口を動かそうとしたけれど、見つめ合ったまま、女性は身体を川へと落とした。女性を追うように下を覗くと、光の膜が均一に張られているだけだった。


すみか 3


 パブから足が遠のいて数週間が経ち、春休みに入った。家とバイト先を行き来する生活が続いた。

 ある日、駅に向かうバイトの帰り道、地下に続くパブの階段の横を通り過ぎると、口の中にほろ苦いものを感じた。私は渇きを感じながら階段を降り、戸を押し開けた。間隔を空けて座る人々の後ろ姿が見えた。以前もカウンター席はあっただろうかと、彼のいない視界の広がりに少しの安堵を覚え、私は中にいる店員さんに、

「ギネスを、お願いします」

 と言った。

「ハーフでよろしいですか?」

 彼女は言った。

 雫のような耳飾りが両耳で揺れた。

「ハーフでよろしいですか?」

 澄んだ雫は水面に吸い込まれるのだろうと思った。綺麗な声だった。

「あ、いえ、パイントで」

「はい、かしこまりました。珍しいですね」

 彼女は言った。


すみか 2


 彼女が働くパブは駅前の地下にあり、三ヶ月ほど一緒にいた彼とよく足を運んでいた。彼はギネスのパイントを、そして私はそのハーフを頼んだ。いつもそうだった。彼はよく喋った。私は彼のよく動く唇をずっと眺めていた。息継ぎをするようにグラスに口をつける度に潤いを取り戻すそれはどうしたら萎むのだろうかと、そんなことばかりを考えていた。

 ある日、最後の一口を残して彼は、別れようか、と唐突に切り出した。生き生きとした唇は、内側にしまわれて見えなかった。私は、そうね、でもここにはこれからも来るからね、と言った。彼は一度グラスに口をつけてから、そっか、と言った。私ではない誰かと巡り会えたのだと思った。

 彼は同じ学部の先輩だった。初めて彼の声を聴いたのは、新年度が始まり開かれた、ゼミの飲み会で隣の席になったときだった。そのときも彼はよく喋った。大きく突き出た喉仏をときおり触りながら、彼は低い声を弾くように喋った。節の切れ目もなく弾き続けた。その優しい声はだから音だけを耳に届け、言葉を単なる浮遊物にした。夜の似合わない人だと思った。そんな第一印象を抱いた。

 けれども彼は飲み会のあった翌日、私の携帯を鳴らした。夜だった。一緒に飲まない、話したいんだけど、ゆったりと一音一音を置くように言った。私はバイト上がりでゴム跡がくっきり付いた髪の毛を指で梳かしながら、昨日の居酒屋の近くにいますよ、と言った。終電に乗り遅れないように階段を駆け上がる人々を見下ろしながら、電話を切った。

 私を見つけて彼は、片方の手を顔の高さで広げた。その手を振ったりはしなかった。そして一度唇を舐めてから、ありがとう、と言った。う、の音が強く耳に残った。

 パブに入ると、店内を見回すこともなく一直線に奥の席に私を案内した。何度も来たことがあるのだろうと思った。女性と。カップルらしき二人組が、店内二十ほどの丸テーブルを埋めていた。何にする、とメニューを私に手渡して、俺はこれにする、と言ってギネスを指差した。私はだから、同じのにします、と彼を見た。じゃあ待ってて、彼は席を立った。

 彼が持ってきたものは、ギネスのパイントとそのハーフだった。

 乾杯をして口をつけると、香ばしく甘い香りが鼻を抜けて、重厚なほろ苦さが舌を包み込んだ。ありがとうございます、美味しいですね、私がそう言うと彼は、よかった、と微笑んだ。それから彼は、短い言葉を発するのに適した声で、夜から後ずさりをしていった。私は優しい声の中の言葉を探すように、彼の唇をじっと見つめた。

 彼が飲み終えるのに合わせて私も飲み終え、次は私が出しますね、と言って席を立つと、いいよ、場所を変えよう、と言って彼も腰を上げた。

 パブを出ると、俺ん家歩いて行ける距離なんだよね、と言って私の手を取った。彼からの電話を取った時点で約束されたことだった。細長い指なのにその腹はしっとりとして、私のそれよりも柔らかい感じがした。また彼が話し始めようとしたから私は、彼の唇に私の指を押し付けた。

 その日以来、夜遅い彼の電話を取ってはパブで一杯飲み、彼の家に行くということを繰り返した。

 私の口が彼の名前を呼ぶのに馴染むことはなかった。