深く暗い海底に沈み

精神的に落ち込んだときの記録

景色をともに 8


 眠りは遠く、ぼくは間接照明を眺めながら、見えなくなる、という、かをりさんの言葉を思い出した。かをりさんが今まで付き合ってきた男性はみんな、どこか遠くへ旅に出て、誰一人戻ってきたことはないのだと言った。いつもと変わらない表情のまま、変わらない声の調子で、

「いってきます」

 を最後の言葉にして。

 人がいなくなることは、見えなくなる、と表現したほうが、そのことをすんなりと受け入れられるのだと説明してくれた。

「いなくなるって寂しい響きじゃない?見えなくなるって言うと、気配は残ってる気がするからさ」

 かをりさんはそう言った。

 彼は今、かをりさんの家で大きな絵を描いている最中なのだと教えてくれた。その絵は、切り株に腰かけるだれかの後ろ姿を描いているものらしく、かをりさんはそれをぼくのことだろうと思っているみたいだった。

「肩の丸みが新一さんにそっくり。初めて新一さんを見たとき、一目でそう思ったわ」

 ぼくのような小柄な男性は、あちこちで見かけるけれど、ぼくはその絵を見てみたいと思った。彼の目に映るぼくの後ろ姿は、みすぼらしいほどにちっぽけだったらどうしよう、そんな不安も少しわいたけれど、描かれること、それを思うだけで、ぼくの心は、木陰でやすらかにまどろむ彼を見た。

「その絵を描き終わったらね、彼は見えなくなると思うわ」

 かをりさんはどこか乾いた調子でそう言った。かをりさんの予感があたるとすれば、その絵を夏の終わりと同時に描き終えるだろう。夏の熱風が彼をどこかへ連れてゆくとは思えなかった。うだるようなしけった夏風を彼が纏うことは、寓話の中のできごとのようにしか思えなかった。

「初めて彼と夜を過ごしたときにね、それはいま振り返ると、彼が自分についてしゃべった唯一のときなんだけどね」

 彼は寝息をたてるよりも小さな声で、一枚の絵画の話をしたという。絵は壮大で、描かれている人間は実寸よりも大きく、がらんと広い原っぱでくつろぐ七人の男女を描いたものらしい。

「後ろ姿だけで表情は見えないんだけど、すごくたのしそうに描かれてるんだ。七人の生み出す親密性の光が、陽の光と調和を取りながら、うらうらと照っているんだよね」

 彼はそういう全景に対する印象を述べてから、その絵を天井に見るように、瞳で薄暗いそれを撫でた。かをりさんはその彼の横顔は、哀しそうにも優しそうにも見えた、と言った。

「おれはこういう絵を見たときに、いつも右端にもう一人描きたくなるんだよね。木陰から一人、グループをのぞき見る、もう一人を」

「どうして?」

「それがおれなんだろうね」

 釈然としない気持ちを抱えたまま、かをりさんは彼の寝息に呼吸を合わせながら、ゆっくりと眠りにおちたという。

 飄々とした彼の佇まいからは想像しにくい話だと思った。彼はグループに対する羨望も、嫉妬も抱かなさそうな性格だと、一方的に、感じていた。むしろその右端は、ぼくのほうがふさわしくて、ぼくが十何年間過ごしてきた場所のように、視界に入らない、光とは縁遠いものにみえた。あるいは、また違った意味を持った場所なのかもしれないと、彼に見えているその場所に、漏れ入るほのかな光を感じた。

 ぼくはその微光を求めるように目を閉じた。