景色をともに 9
週末、ぼくは電車にゆられて街へ出た。額からあふれる汗をタオル地のハンカチで拭いながら、かをりさんが待ち合わせ場所に指定したカフェを目指した。
「新一さん、今日何してる?」
今朝、かをりさんから電話を受けた。
学外でかをりさんに会うのは初めてのことだったけれど、
「どうかしたんですか?」
そういう言葉は言葉にならずに、頭の中だけで響いた。
カフェに着くと、かをりさんの手をあげるのが目に入った。白くて長い指をしていることを初めて知った。
「休みの日にごめんね」
かをりさんは言った。
「いえ」
「今年の夏は長いわね。まだまだ暑い日が続くって言ってたわ」
「そうみたいですね」
「でも夏は嫌いじゃないわ。汗をかくと生きてる感じがする。汗ってやわらかいでしょう。だからいいのよ」
「液体っていうことですか?」
「そうね、だからこそ汗は流れてかたちを変えられる。どうしてかね、よく見る夢があるの」
かをりさんはカップを両の手で持って口元に運んだ。
「見えているもの全てが動かない夢。風も何もない。それを見ている私は、体がなくて、普段するように手や腕を見ようと思っても、そこにはないの。夢としてはなんの面白みのない平凡なものだとは思うのだけど、どうしてかこわいのよ」
「今朝も見たんですか?」
「うん」
「そう、ですか」
「その夢を見たあとはね、必ず体を丸めた状態で目がさめるの」
ぼくは薄べったい氷の浮かんだお水を口に含んだ。
「新一さん、うちに来ない?」
かをりさんは、そっと目頭をおさえてほほえんだ。優しい笑顔だった。
彼はもう、見えなくなったのだろう。数えられるくらいしか彼に会ったことがないぼくは、もう一度だけ、彼の本をめくる音を聞きたいと思っていた。彼はまぶたの裏の遠くの遠くに、ぼやけたままで、ずっとい続ける。彼はその向こうから同じ景色をを見てくれるだろうか。
ぼくはお水を流しこみ、残った氷を、舌の上でそっと溶かした。