深く暗い海底に沈み

精神的に落ち込んだときの記録

すみか 7


「今日もその池には行くのですか?」

「はい、毎日行ってますから」

 彼女の頬は赤らんで桃のようになっていた。

「一緒に行きませんか?」

 彼女は言った。

 私が頷くと、彼女も少しだけ頬を持ち上げて頷いた。空になった私のグラスを持って彼女は席を立った。

 交差点を一つ超えて石畳の路地に入ると、左右の窓ガラスの向こうでは、肩を寄せ合いながら、または顔を突き合わせながら、一様に、愉快で仕方がないという風情でお酒を酌み交わす姿が見えた。密閉された笑い声を横目に、歩を進めるたびに小さくなってゆく彼女の背中だけを追いかけた。

 似たような路地を幾度か曲がり、ダクトの見下ろす、光の届かない隙間を抜けると、破れたネットに雑草、落ち葉を抱え込んだテニスコートがあった。彼女は一度振り返り私を見てからテニスコートを横切って、鬱蒼と生い茂った木々を慣れた手つきで抑えながら、ずんずん進んで行った。その姿を不思議に感じながら私は、彼女が言う池というものを、彼女の雫の耳飾りのようなものだと思っていたことに気がついた。

 彼女の通った跡を消すようにして木々は揺れ戻った。視界から彼女が消えても、私が進んだ先には彼女がいてくれるだろうと思った。私はだから破れたネットを触りながら空を見上げて目を閉じた。

 吹けば消えてしまいそうな雲が月にかかり、私は彼女がしたように木々を抑えながら同じ道を辿ろうかと思ったけれど、私の二本の腕では抑えきれずに枝葉が身体を突いた。目にさえ突きささらなければと、身体を反転し後ろ向きに進んだ。彼女の道を荒らしてしまっていないか、木々が揺れ戻るのを眼前で確認しながら、引きずるようにして一歩ずつ足を出した。

 木々の感触が背中から消えたところでようやく着いたと、私はまた身体を反転した。そこには夜の暗さとは同化できない暗さを湛えた池があった。それは何千何万回と見たようにまるかった。辺りの伸びた木々は池に顔を浸すように曲がり、池には月明かりが届いていなかった。足下に目を遣ると、縁を囲う朽ち果てて角を失くした木材には苔が生え、水面には落ち葉が島を作っていた。確かめるまでもなく見えない水中は濁っているだろうと思った。彼女に似つかわしくないように見える光景を前にして、私はだから何一つ馴染む言葉を持っていないんだと思った。

「………」

 音を届けるだけの声を出すと、渇きを感じた。足下にあったこぶし大の石ころを拾い上げ池に投げ入れようとすると、池の真ん中から何かが浮かび上がった。白いそれは白くて、その白さは彼女のものだろうと思った。彼女だと思うと、唇や鼻、つま先、あるいは睫毛の動きまで、およそ浮かび上がっているものは全て見えるような気がした。彼女は見えない月を見つめているかのように一点だけを見つめて動かず、まばたきさえもしなかった。それでもわずかに上下動を繰り返す腹部を見ていると彼女の呼吸音が聞こえるような気がして、それに合わせるように私は同じ空気で呼吸した。

「この池はとても綺麗なのよ」

 彼女が言ったのか、私がそう言ってほしかっただけなのか、その言葉はでも恵みの雨のように夜の静けさに沁みわたり、月の声はこのようなものなのかもしれないと思った。

「ありがとう」

 つぶやいて私は裸になり、池の中へと飛び込んだ。私が泳いで向かう間、彼女は顔をこちらに向けて頬を持ち上げていた。

「ありがとう」

 と彼女は言った。

 私は慣れない立ち泳ぎをしながら彼女の頬に触れ、触れてからそこに張り付いた髪の毛を一束一束、一本一本、彼女の耳にかけていった。露わになった耳にはもう雫の耳飾りは揺れていなかった。私はまた、

「ありがとう」

 と彼女を見つめ、私たちはそっと唇を重ねた。