深く暗い海底に沈み

精神的に落ち込んだときの記録

すみか 2


 彼女が働くパブは駅前の地下にあり、三ヶ月ほど一緒にいた彼とよく足を運んでいた。彼はギネスのパイントを、そして私はそのハーフを頼んだ。いつもそうだった。彼はよく喋った。私は彼のよく動く唇をずっと眺めていた。息継ぎをするようにグラスに口をつける度に潤いを取り戻すそれはどうしたら萎むのだろうかと、そんなことばかりを考えていた。

 ある日、最後の一口を残して彼は、別れようか、と唐突に切り出した。生き生きとした唇は、内側にしまわれて見えなかった。私は、そうね、でもここにはこれからも来るからね、と言った。彼は一度グラスに口をつけてから、そっか、と言った。私ではない誰かと巡り会えたのだと思った。

 彼は同じ学部の先輩だった。初めて彼の声を聴いたのは、新年度が始まり開かれた、ゼミの飲み会で隣の席になったときだった。そのときも彼はよく喋った。大きく突き出た喉仏をときおり触りながら、彼は低い声を弾くように喋った。節の切れ目もなく弾き続けた。その優しい声はだから音だけを耳に届け、言葉を単なる浮遊物にした。夜の似合わない人だと思った。そんな第一印象を抱いた。

 けれども彼は飲み会のあった翌日、私の携帯を鳴らした。夜だった。一緒に飲まない、話したいんだけど、ゆったりと一音一音を置くように言った。私はバイト上がりでゴム跡がくっきり付いた髪の毛を指で梳かしながら、昨日の居酒屋の近くにいますよ、と言った。終電に乗り遅れないように階段を駆け上がる人々を見下ろしながら、電話を切った。

 私を見つけて彼は、片方の手を顔の高さで広げた。その手を振ったりはしなかった。そして一度唇を舐めてから、ありがとう、と言った。う、の音が強く耳に残った。

 パブに入ると、店内を見回すこともなく一直線に奥の席に私を案内した。何度も来たことがあるのだろうと思った。女性と。カップルらしき二人組が、店内二十ほどの丸テーブルを埋めていた。何にする、とメニューを私に手渡して、俺はこれにする、と言ってギネスを指差した。私はだから、同じのにします、と彼を見た。じゃあ待ってて、彼は席を立った。

 彼が持ってきたものは、ギネスのパイントとそのハーフだった。

 乾杯をして口をつけると、香ばしく甘い香りが鼻を抜けて、重厚なほろ苦さが舌を包み込んだ。ありがとうございます、美味しいですね、私がそう言うと彼は、よかった、と微笑んだ。それから彼は、短い言葉を発するのに適した声で、夜から後ずさりをしていった。私は優しい声の中の言葉を探すように、彼の唇をじっと見つめた。

 彼が飲み終えるのに合わせて私も飲み終え、次は私が出しますね、と言って席を立つと、いいよ、場所を変えよう、と言って彼も腰を上げた。

 パブを出ると、俺ん家歩いて行ける距離なんだよね、と言って私の手を取った。彼からの電話を取った時点で約束されたことだった。細長い指なのにその腹はしっとりとして、私のそれよりも柔らかい感じがした。また彼が話し始めようとしたから私は、彼の唇に私の指を押し付けた。

 その日以来、夜遅い彼の電話を取ってはパブで一杯飲み、彼の家に行くということを繰り返した。

 私の口が彼の名前を呼ぶのに馴染むことはなかった。