深く暗い海底に沈み

精神的に落ち込んだときの記録

みしお 2

 ウイスキーの味というものは全く分からない。今まで数種類飲んだことはあるけれど、どれも似たような味でまだまだその深層を覗くには至っていない。これからも恐らくないだろうと思う。私はでもお湯わりが好きだ。飲むため口元に近づけ目を閉じる。すると香がまず水面に微かな波を立てる。それが収まる頃口にする。やがて見事な墨流しがじんわりと広がってゆく。そうした情景とお酒の回る感覚の合致がとても美しい。味はさておき、私はだからウイスキーを好む。お湯わりに限って。

「お姉ちゃん、またぼーっとしてるよ」

 その声にはっとして目に力を入れた。奏太の鼻がこちらを向いている。

「何かしないの?」

「お酒を飲んでるじゃない」

「いつもそうじゃん」

「そうよ」

「何かしてるうちに入るの、それって?」

「入るわよ」

「大人になれば分かる、とか言いたいの?」

「言わないわよ、そんなこと。歳を重ねれば分かることもあるけれど、分からないこともそれだけあるわよ。大人になれば分かる、なんてことをおっしゃる立派な方がいらしたら、その方のお顔だけを見て、立派なお顔だこと、そう思ってればいいわ」

「面白いね、それ。そうするよ」

 奏太の鼻が少し横に広がった。そしてそれは下にある分厚いものの方を向いた。

 少しお酒が回ってきたのだと思う。滑らかに言葉が口から出てゆく。捕まえようと思っても、その頃にはもう手の届かないところを漂っている。それらを眺めながら、私はそれらを私の言葉とは見なさないで、他人の発したものとして眺め直す。

 大人になれば分かる、そんな言葉は言い逃れに過ぎない。知識に関しては答えられることは増えるだろうけれど、感覚的なものはどうだろうか。

 人と話すことが楽しい。そのことは小さい頃から変わらずそうではあるけれど(人と話したくないときに関しては今は目を瞑る)、小さい頃は語彙力不足で、楽しい、としか言えなかったものが大きくなってくると、相手を知ることができて楽しい、などのように少しの飾り付けを施すことができるようになってくる。そしてそれは様々な体験をしてゆくことで、大きくも小さくも、派手にも地味にもなる。ときにはなくなりもする。だからあなたが大人を自称し、私の感情をも分かった気になるなんていうのは甚だ煩わしい。頭を撫でるような、肌を擦り付けてくるような言葉は全くもって欲していない。大人というものは自称するものではなく、他人が勝手にそう思うものだ。

 ああ、酔ってきた。私は何をしているのだろう。大人について考えているのだろうか。言葉にし、発していたならば、支離滅裂で理解できないことなのだろうなあ。

 漂っていた言葉たちよ、泳がないでくれ。

 高台を作り左方に目を遣った。奏太は綺麗な横顔をしている。長い睫毛と高い鼻梁。下を向くと前髪で目元が少し隠れるのもよい。それならば顎をとんかちで一度打ち込んだほうがもっと綺麗か。いや、これで美しい。美しさは比較するものでもない。万物それでいて美しい。

 ああ、酔った。目を踏ん張らせないと焦点が合わない。弱いのを認めたくはない。奏太は遠くに座っているのか。ぼんやりとしている。車窓に映る隣の誰かを見ているように頼りない。手を伸ばせば届くはずではあるけれど、いちいち確認することもない。私はいつからそういうことを大儀だと思うようになったのだろうか。

 ああ、酔っている。私は果たして何もしていないのだろうか。大人になれば分かる、そう言葉にするだけまだよいか。私は優美な日本舞踊も踊れば、血潮滾るフラメンコも踊る。それは言わば私の感情の波でしかなく、側から見れば、何もしていない、なのだろう。言葉にするだけまだよいか。

 私は何を欲しているのだろうか。結局は言葉か。それも慰めの、渇きを潤し染み渡る、そんな都合のよいものか。奏太がこうして勉学に励んでいるのに。縋る言葉がほしいのか。ああ、もう少し酔っていたい。

「お姉ちゃん、寝たら?」

 声がして奏太の鼻を見た。摘んだ。

「なんだよ」

 振り払われた。少し濡れている。

「暖房、つけようか?」

「我慢できるからいい」

「そう。じゃあティッシュ

「それ、僕がノートを丸めたごみ」

 なるほど、だからごわごわしているのか。

「それにどうせなら使ってないのをちょうだいよ。お姉ちゃん、酔っ払いさん?」

「酔っ払いさん」

「だよね」

「だよ」

「目開けながら寝てるみたいだったよ」

「そう?」

「そう」

「それより奏太は寝ないの?」

「もう少し頑張る」

「そっか」

「お姉ちゃんは寝てもいいよ」

 声を出し少し目が醒めた。少し冴えた頭でふと思った。私は何に執着し、起きているのだろうか。思ってそのまま寝転んだ。力が抜けて気持ちが良い。電気は見つめると眩しい。視界が真白になる。逸らして奏太の方を見ると、段々と真黒なものが姿を現し始めた。真黒だ。鼻の穴か。なんだか面白い。

「奏太」

「ん?」

「なんでもない」

「なんだよそれ」

 黒いそれが大きくなった。はは、面白い。目を細め天井を眺めた。