深く暗い海底に沈み

精神的に落ち込んだときの記録

みしお 1


 階段で躓いた。

 そんな気がして目が覚めた。

 ああ、この感じ。

 私は布団を持ち上げることなくベッドから体を滑り落とした。つきたてのお餅のようにのっそりと。落ちてからは冷ますまいと小走りでトイレへと向かった。低温やけど注意と書かれた便座に腰を落ち着ける。内扉に掛けられた時計に目を遣った。

 一時五十分。

 あと十分はこうしていよう、いつものようにそう思った。

 奏太がまだ小学校低学年の頃、奏太はよく遅刻した。立ち小便でトイレを汚していた奏太は、座り小便をするようお母さんに言われ、それをしっかりと守るようになったけれど、うたた寝をするようになった。ノックをしても返事がなく、そのことに驚いたお母さんは扉を開け、寝ている奏太を発見した。そんなことが数回繰り返された結果、トイレに時計が掛けられた。学校でよく見る一般的な丸いそれだ。それ以降、奏太はトイレで眠ることはなくなった(遅刻をしなくなったわけではない)。トイレという狭い空間にこんなものがあれば落ち着きが悪い。見慣れれば一種の飾りに過ぎないのだろうけれど。

「お姉ちゃん、早く」

 扉の向こうで声がした。

 ずっと見ていたはずの時計の針ももう二時を指している。時間の経過を表すこの針にどうしていつも置いていかれるのだろうか、ぼんやりとそんなことを思った。そしてまたいつもそう思っていることを思った。

 扉を開くと奏太が立っていた。私よりも少し、背が高い。

「おはよう」

 それだけ言って私の脇をすり抜け、そそくさとトイレの扉を閉めてしまった。

 扉が閉められたことで薄暗闇にぽつねんと残された私はリビングへと向かった。広くはないマンションの一室ゆえに走っても走らなくても時間にしてみれば大差はないけれど、私は走った。冷え性なのだ。冬の夜気を吸い上げる役目を果たしているのかと、私は私の足の働きを快く思ったことはない。

 リビングの電気を点け、こたつに足を突っ込んだ。ほのかな温もりが足を包み込む。私のためかそうでないかは知らないけれど、奏太はトイレに行く前にこたつの電源を入れる。私もその奏太になのかこたつになのか改めて確認することもなくただ、ありがとう、と思う。

「今日も冷えるね」

 トイレを済ませ、リビングにやって来た奏太もこたつに足を突っ込んだ。私たちは正方形のこたつの二辺を埋めた。奏太は机に置いてあった教科書を広げ、顎に手を遣った。私の産毛と遜色ない程度の頼りない髭を撫でている。奏太の癖だ。

「いつからだっけ、期末試験?」

 奏太の右顔に話しかけた。

「十七日から」

 口だけが少し動いた。

「もうすぐだね」

「まだ四日もある」

 四日も。高校生に戻った気分で考えれば確かに試験まで四日と言われるとまだ十分に時間がある気がする。先の時計の針を四回転させてみた。あっという間だと思った。いや、正確には八回転かと思い直しもう一度針を回してみたけれど、六回転目で嫌気が差した。高校生の奏太には八回転でも、大学生の私には六回転くらいの感覚なのだろうか。一年前までは八回転だったはずなのに。

「お姉ちゃんはいつもそこでぼーっとしてるけど、何かしないの?」

 髭を撫でていた手を丸め、顎を握るようにしたまま奏太は言った。丸めたこぶしが高台に見えた。それならこの艶を持つのは漆器だろうか。奏太が漆器だとして私はなんだろう。奏太に倣って私は顎を握った。

「何してるの?」

 奏太は笑った。

「お姉ちゃんはそうやってすぐ一人でどこかへ行っちゃうよね。たまには僕も一緒に連れて行ってほしいよ」

「また今度ね」

 また今度も何も私はただぼんやりと妄想の中にいるだけなのだ。どこへも連れて行けやしない。私は伸ばしていた脚をたたみ、体育座りをした。

「奏太、牛乳でいい?」

「うん、ありがとう」

 私はその声を聞き台所へと走った。乾燥機の中でひっくり返っている、青と黄のカップを取り出した。青色のそれに牛乳を注ぎ、レンジへ入れて三十秒にセットした。そしてまたこたつへと急いだ。

 顎を撫でている奏太の横にある分厚い教科書を一冊手に取った。「日本史B」と書いてある。オレンジ色のそれを見て歴史とはこの色だと思った。私も同じ教科書で勉強したからだろうけれど、歴史の問題や記事を目にすると、閉じられたこれが頭の中にどすんと置かれる。ページを手繰ろうとしてももう覚えてはいないから、全てのページが分厚い一枚として綴じられているだけで、四百数ページを手繰っていくことはできない。奏太の頭の中ではできるのだろうか。

 チーン。

 三十秒とは一瞬か。私はビーチフラッグスの選手のように身を翻し走り、レンジを開いてお盆に置いた。また足が冷気を吸い取り始めている。ビーチフラッグスとは季節外れだったと思った。目の前の瓶から角砂糖を一つ落とし、スプーンを添えた。床のウイスキーを黄色のカップに注ぎ、ポットからお湯を足した。静かな部屋の空気に、ぼーっという音が少しの揺らぎを与える。

 教科書を睨みつけるような奏太の横顔を眺めながら私はこたつへと入った。お盆を置き足を伸ばして、奏太の脛のところに足の裏をくっつけた。

「冷たっ」

「牛乳は温かいよ」

「なんだよそれ」

 奏太は埋め合わせの言葉を漂わせたまま頬を緩め、カップに手を伸ばした。

「うん、温かい、美味い、ありがとう」

「どういたしまして」

 私は私のカップに口をつけた。

ウイスキー?」

「そうよ」

「俺にはまだ分からない味だ」

「私も分からないけれどね」

「そうなの?」

「そうなの」

「なんだよそれ」

 奏太はまた教科書に目を遣った。